中本道代「ひかりをこぼす声」

著者 中本道代
タイトル ひかりをこぼす声
出版年月/出版社 受賞回[年] 31回[2016]
分野 分類 選評
  鈴木東海子さんの『桜まいり』は、静謐で豊かで悲しみに満ちた詩集である。一読しただけでは悲しみの在りかはわかりにくいかもしれないが、気がつくと、詩集全体にはりつめている悲しみの気配に胸を衝かれる。
 この詩集の場所は作品の主体である「わたし」が日夜馴染んでいる庭で、庭は「わたし」の孤独を映すものとして息づいている。庭の一木も一草もただの木や草ではなく、「わたし」の感情の依代のように、もの言いたげに伸び、そよいでいる。
 庭は季節の巡る場所だ。毎年、春になり夏になり、秋や冬がやってくる舞台なのだが、春も夏も秋も冬も去年と同じではなく、螺旋のように時は移ろっていく。「樹時計」という作品に螺旋状に小さな花をつける「ねじり花」が出てくるが、そのねじり花の階段をのぼるように「わたし」の意識は時をさかのぼっていく。「ここでは/はく息までが想い出である」と書かれているように、過ぎた時の愛おしさと悲しみに息で触れているのだ。
 庭には桜が咲き百合が咲き、樹が繁り、草花が種をこぼしている。木漏れ日が煌めき、雨が降り、落ち葉が舞い、雪が積もる。虫が育ち蝶が飛び、鳥が実を啄んでいる。「わたし」はそれらすべてと息吹を交わしながら、満ちているものの気配を抱きとっている。庭は閉ざされているのではない。どこか、この世界ではない、広々とした領域へと繫がっているのだ。その場所への痛切な憧憬とその場所からの密やかな訪れが混じり合う境界の場所として、庭は空と野に向かって大きく開かれている。
『桜まいり』の詩法の特徴の一つとして、主語であるものの名を語らない、という点に注意を惹かれる。例えば、最初の「夕窓」という作品で「葉のかたちにうずもれるように訪ねてくる」のは何だろうか。「黒い羽が風の音をしずめて」とあるので黒揚羽蝶かと思うけれど、最後まで名は明かされないままだ。黒揚羽蝶ではあっても、それだけではないからなのだろう。この世界ではないところから、かそけき羽音とともに、懸命に「わたし」の近くに羽ばたいて来るものなのだから。
 そのように、庭に生きるもの、訪れるものの名を語らないということには、名を明かして了解したつもりになってほしくはない、一つの大切な名があることが想像できる。その名が、「わたし」とその相手だけの呼び交わしとして、この庭に、この詩集に秘匿されているのだろう。それを最も感じさせる詩行が「はなの羽」という作品の中にある。「〈はは〉と〈こ〉の草という名が呼びかけられるのであ/った。のだろう。/わたしはははであったのだろう。/この名を呼んでみる。ははの声で。/それはなんかいも。なんにちも。と。」
 硬質な文体で個性的な詩作品を構築してきた鈴木東海子さんだが、この詩集では、限りなく弱い、小さいものとしての声がひかりをこぼすように響いていて、読む者も庭へと、さらにその先へと誘い出されていくようだ。