高橋睦郎「明るい迷路」

著者 高橋睦郎
タイトル 明るい迷路
出版年月/出版社 受賞回[年] 25回[2010年]
分野 分類 選評

  二〇〇九年にもたくさんの詩集が出た。その中で最もひっそりと、しかし最もしっかりと心に残ったのが、有田忠郎『光は灰のように』だった。
 詩集一冊は「夢の鏡」に始まり、「夢の書物」に終わる。つまり、この詩集は人生という夢についての十九枚の鏡から成る書物という名の館なのである。偶然によってこの館の前に立った者は、いつかその中に迷い込んでいる。迷路といえば闇を連想するのは私たちの怠惰な思いなしで、むしろ光に満ち満ちているのではなかろうか。
 すくなくともこの十九枚の鏡から成るこの館は光に満ち満ちている。満ち満ちた光が十九枚の鏡から発し、互いに反射を繰り返すことで、迷路はいよいよ錯綜する。けれどもその錯綜に晦渋の影はいささかもない。その理由は一枚一枚の鏡に晦渋のしみ一つないからだ。
 たとえば最初の「夢の鏡」である。そこでの発語者「わたし」は自分が人生という夢の「出口」に近くいる、と自覚している。その出口近くまで「くぐった門の数が無限だったことを/聖なる虚無も迷路の永遠も見たことを」「思い出そうと」している。「だがその時すでに/わたしというものが誰かのなかで/記憶された影の影になっている」。
 この鏡から発する光は最後の「夢の書物」という鏡に受け取られる。そこでの発語者「ぼく」は「三十年前」の「五月も半ば」、「フランス」「高地オートプロヴァンスの前衛に当たる街」で買ったまま、ちらと覗いただけで失くした「二冊の小型本」の一冊の、わずかに憶えている冒頭を記した上で、
  あの赤ん坊そのままに、ぼくはいまも夢の頁に畳み込まれているよ
  うに思うのです。物語はまもなく終わろうとしているのに。大きな
  書物の中の小さな書物は、暗い鏡の中で赤ん坊のぼくを繭のように
  包みながら、いつか誰かに読まれるのを待ち続けるのでしょうか。
  と閉じる。「暗い鏡」と言いながら、この最後の鏡もまた微塵も晦渋ではない。それなのに謎は残る。明るい、敢えていえば、眩しい謎である。
  同じことは他の十七枚についてもいえる。たとえば集中最も短い、わずか六行の「パンタ・レイ」という表題を持つ一篇。
  雨季に麦わらの帽子を冠った
  永遠の夏の人は去ったから
  せめて季節のズレを愉しむのだ
  パンタ・レイ  すべては流れる
  ことばの灰が雪のように降る  この
  日付のない水の曜日に
「わたし」や「ぼく」より早く、この鏡の館の出口を出た者は、新たな鏡の館に迷いたく思う。こんな思いにさせてくれた詩集には、長いあいだ出会っていない気がする。賞に推したのは、今後ともますます明るく迷わせていただきたいとの、私自身の我儘にほかならない。