三井葉子「生まれる場所」

著者 三井葉子
タイトル 生まれる場所
出版年月/出版社 受賞回[年] 21回[2006年]
分野 分類 選評

  入沢康夫詩集『アルボラーダ』のおもしろさ。アルボラーダはスペイン語で「朝の歌」。扉の裏の「……del gracioso」は道化役者の……ということだから。道化役者の朝の歌。そうです、そのすばらしさ。(朝という気分のよさ)。巻頭のおどけ唄からはじまる軽み、明るさ――光。なるほどな、これほど美しくなれるのだと私は溜息をついている。軽みという解体。明るさという消滅。まばゆい再生。入沢詩に於てなぜこのような今日、現在が提出されるのか。たとえば「夢のなかで……」という作品がある。五十余年のむかし、十七歳の私と四十七歳の父とが言い争っているうちに――急に涙が湧いてきて。この絵のように並ぶ手続きが大切なのだが「私」は。
  下駄を突っかけ、を手荒く開け、谷沿いに登って鳥に会い。葉洩れ場に会い。その條目すぢめをかすめて翔ぶかとんぼの翅――を見てしまうのである。
  そうだ。やっぱり夢のなかでだ。と道化役者はいうのだが読者はその條目すじめを見てしまい、或る日の解体に出会ってしまう。毀れる明るさ、その散らばったものが組み立ち上る明るさ。入沢康夫の呪文はあるときは鮫鮫鱶鱶鱶  鮫鮫鱶鱶鮫(擾図陀羅尼)と唱えられる。さめさめふかふかふか  さめさめふかふかさめ。幼い子に熱いものを食べさせている母親がほら、さめさめ。ふうふうしてねと言っている。ふかふかはどうしてもやわらかいしとねのような。島根の白兎伝説にさそわれずにはいられない。詩人は解体したものを中庭パテイオに干して置くが(多用される脚注は「注」を付すことでより意味を失ってゆく彼らのため)そしてその乾いた言葉が鮫のような(白兎がとんだ)自らの背骨條目せぼねすじめに沿って貼りつけられてゆくとき。父が子を生んだのではないかと私は思う。歴史は骨が作る伝説、国生みの現場である。
  そんな一方に暮尾淳詩集『ぼつぼつぼちら』があった。芸術はもう沢山だと言った竹久夢二のことなどを思いながら私は人がいつ、どこで何と出会ったかという分割ウワタイル(切り取り)のときを運命的なものとして考えずにはいられなかった。暮尾詩が星雲(混沌)と分かれることができなかったことを私は忘れずにいるだろうか。倉田比羽子詩集『世界の優しい無関心』もまた、よい詩集だった。より正確でありたい願いがいっしんに言葉を引いているというふうであった。言葉は箱車はこぐるまのようで、その願いによってのみ世界をひらく(連結する)。関係性が指標によってのみもたらされるという不自由と、予感しない言葉を清潔と私が思うのは、その願いの向こうに生まれるべき清潔、あるいは死ぬべき清潔があるせいだろう。日高てる詩集『今晩は美しゅうございます』は科白と言い振舞いと言い演劇的活力にあふれた一冊であった。ただ、あふれ出る活力で舞台が見え難いといううらみが残った。
  候補詩集は最終四冊に絞られ『アルボラーダ』は満票に支持された。