安水稔和「詩の今を」

著者 安水稔和
タイトル 詩の今を
出版年月/出版社 受賞回[年] 20回[2005年]
分野 分類 選評

  詩が行きつくところまで行きついたという思いと、どこにも辿りついていないのではという恐れとは、おそらく裏腹であるのだろうが。息急き切って駆けて来てふと立ち止まって、ああ、そうなのか、そうなのだと感知するときがある。そんなとき飯島耕一の仕事に触れるとどこかほっとするのだ。
 詩集『アメリカ』は出色の作物である。今あらわれるべくして現れた熱い言葉の塊と言えよう。
 ほう、泡、呆、疱と音を辿り。ヘル、ヘル、ヘルダーリンと声に出し。人間は植物、植物は人間と唱えてみる。無造作と言えば無造作、無作為と言えば無作為。繰り返し繰り返される語彙、溢れる人名と地名と件名。ゆるみともたるみとも思える姿態の言葉が詩人の捕われない声調に従って呼吸を始める。勁く深く息づく。
 最近対談の機会があった。その席で詩人は、モダンジャズを突然聴きたくなってとか、突如としてバルザックが好きになってとか、なんでも僕は突然でしてと話していたが、それはそれ。そんなふうに弾みをつけて、シュルレアリスムから俳諧、ジャズからブードゥー教、徂徠から西鶴と話を広げた。詩集でもそうだ。岡山からアメリカ、空襲から空爆そして同時テロ、定型と散文と失語と饒舌の綴れ織で七十年余の生に張りついた七十年余の時代を確かに言語化している。
 「アメリカ」で、なつかしいアメリカ、悲しいアメリカ、寂しいアメリカと手ばなしに書く。アメリカは私だが、アメリカは私にはなれないと重く書く。アメリカは私を恐がっているとまで書く。直截で強靭な精神。かと思えば、芭蕉最後の句会を生前の笑ひ納め也と記す其角に共感する諧謔の人でもある。
 「コルトレーンの九月」の結び四行は。

  言葉の無限
  音の無限は  おれは信じるよ  と
  ついでにつけ加えては
  どうだろう

  言葉と音と、つまり声の無限を信じて、ぶれながらぶれず、ゆるみながらゆるまず、有限の声を重ねて出しつづけるこの詩人は詩の今を、その行方を考えている。
 他に四冊の詩集について私たちは時間をかけて話し合った。尾花仙朔『有明まで』の激しく固まる言葉、魂の祭文。鈴木漠『言葉は柱』の勝れて喚起力を秘めた言葉、ふくらむ抒情。いずれも現代詩の良質の部分の見事な結実と言えよう。杉山平一『青をめざして』は近代を次世代へおおらかに繫ぐ明晰な詩業。関富士子『植物地誌』は植物に心身をあずけるいさぎよさに眼をひかれた。