藤井貞和「詩とは何か」

著者 藤井貞和
タイトル 詩とは何か
出版年月/出版社 受賞回[年] 19回[2004年]
分野 分類 選評

  日本社会では、自由詩と、短歌、俳句という、おもな三者の鼎立することが特色だ、とすると、詩歌文学館賞の性格はこの在り方にかかわるらしい。そう見当をつけてみると面白い。
 詩的とはどういうことかについて、フランスの思想家、ジャック・デリダ氏は、ひとつに「記憶の節約」ということ、と答えている。詩はある種の短さを持っているので、背景をなす物語が、大省略される代わりに、暗記、つまり「心」に学ぶという、記憶できるほどの短さを有して、そこに凝縮される事態のようなものが「詩」だということだろう。「心」をあらわすというところにもデリダ氏は詩の特色を見いだす。
 長からぬ詩と、ちょうど記憶できる程度の短歌と、凝縮的な俳句という三者であることに気づかされる。
 安藤元雄氏の『わがノルマンディー』は、詩のもつ一編一編にまさにふさわしい長さ――あるいは短さ――をうつわとして、自由詩という語に内蔵される、自由の動きをてこに、しかも適度の凝縮性と、物語性をもかねそなえて、短歌や俳句に伍してゆける、熟した日本詩の世界を体現してみせる。
 現代詩の宿命として、たえず欧米詩の影響下にあって、欠損感や実験性を楯にして、日本語を危機にさらしてゆかなければならない、と言った使命感から言うと、ある程度、その使命性のバーを下げつつ、日本語での詩らしさや、「心」をたえず外部からの視線にさらす仕方、生死観の超え方や境位において、定型詩や古典のたぐいと真に拮抗できる、自在さをこのジャンルにふるまわせている、ということになろう。
 しかもそれをフランス文学者でもある安藤氏がなしとげている、というところに、一層の意義深さがある。
 『現代能 始皇帝』(那珂太郎氏)は、詩集とは何か、ということを深く考えたいときに、この書き方が可能なのだという、歴史、演劇、そして声を借りるマルチタイプの詩集世界をつくりだした。こういう高められた状態で詩だということ、だれにもマネできない「現代能」という、これももう一つの自在さであるさまを、ぜひこの日本風土で評価したいと思う。現代最高の書き手がなまなかのことをやってない、という証拠を突きつけた。
 『(ひかり)、……擦過。』(岩成達也氏)もまた、那珂氏のと対照的かもしれないが、詩の言語が作品集そのもののなかに生産されるという、ある意味で詩的閲歴を必要とする作業であり、擦過という語ひとつにも現代のだいじな詩学を感じさせる。
 『銃剣は茄子の支えになって』(小松弘愛氏)は決めるところをぴたっと決めてゆく一編一編の構成がみごとであると感じられた。『雨言葉』(暮尾淳氏)は表題作「雨言葉」のような秀作をふくんでいた。