高橋順子「吟味された言葉」

著者 高橋順子
タイトル 吟味された言葉
出版年月/出版社 受賞回[年] 13回[1998年]
分野 分類 選評

 『けさの陽に』は選考委員会に先立って行われた、詩人たちや詩書出版関係者へのアンケートでも最高点を獲得したものである。
  新川和江の詩の特徴は言葉のふくよかさ、おおどかさである。よく吟味された言葉が上滑りせずに具体物の細部を摑んでいるので、大景を描いたときに、遠くにまで生命が通うのである。極小と極大、永遠と瞬間、それぞれ遠い時空間をふくんで、ふところを豊かにしてゆくのだ。
  たとえば、巻頭の詩「シーサイド・ホテル」のあざやかな手並みはどうだろう。
「海中で死に/いくにちも波間に漂っていた魚を/食べたことはないが/それはきっと/きつい塩気が舌を刺すのにちがいない/鰓が動きを止めた瞬間から/魚の体内への/海の浸蝕がはじまるのであろうから」。
「海水の浸蝕」とせずに「海の浸蝕」としたところに、詩が成立していることを見落としてはならない。それが小さな魚と大きい海の対比を生み、静と動――それは死と生でもある――を際立たせる。そしてそこから詩人は一尾の魚としての、いや一片の魚肉としての自らを見つめるという、俳味にかようものをとりだすのである。「わたしの肉は/まだ  少しは  あまいだろうか/それとももう  かすかに塩あじがしているか……」と。
  ここには、ひりひりするような悲壮感もなければ、感傷も敗北感もない。「神の菜箸」に挟まれるのも、自然の摂理として受け容れよう、そういう気持ちが感じられる。微笑さえ漂っているようではないか。
  かつて新川和江は「わたしを束ねないで」と女性性を高らかにうたいあげ、子をもったときに「この世でいちばん優しい歌」をうたった母性の人である。ここに来て、明らかになったことは、自然性の詩人であるということだろう。
  自然が文明に浸蝕されようとしている現代にあって、自然の子として生きてゆきたいという願いが、新川和江に詩を書かせているようである。内なる自然を豊かにたもつには、自分の内面に水やりや滋養分の補給を怠らないようにし、これを育てなければならない。その結果としての成熟である。みごとな果実の熟成を喜びたい。
  なお「鷹羽狩行の句による詩的ヴァリエーション」が第二章に収められているが、これらの作品群についての評価が選考委員のあいだで分かれたことは書き添えておかねばなるまい。
  すでに他の詩人によってなされた類似の試みであること、詩的イメージを喚起する句が優先的に選びだされ、句と詩それぞれがお互いを照らしあう有機的な関係を結ぶには至っていないとする見方と、解放感を得て、新局面をひらいたとする見方とが対立した。
  この試みが、さらに豊かな成熟への道をひらいてくれるものとなることを、さいごに祈念するものである。