中村稔「自己探求の祈り」

著者 中村 稔
タイトル 自己探求の祈り
出版年月/出版社 受賞回[年] 11回[1996年]
分野 分類 選評

 「家族のことは書きにくい。とくに詩では書きづらい。自分の存在の根のなまな部分に触れざるをえないから、だろう。
 しかし、それを書くことは一種の通過儀礼のようなもので、どうしても避けて通れないようだ。自分の存在の根を見つめることを避けて通っては、書く者としての自立も覚つかない、ということだろうか」。
  高橋陸郎はその詩集『姉の島』について、「青春と読書」九五年九月号に記した文章を、こう書きおこしている。つまり、この詩集はこの詩人がその自立を求めてその存在の根をさぐった長篇詩である。その存在の根として三人の姉、四歳九箇月足らずで死んだ長姉、別れ別れに育った次姉、堕胎されたもう一人の姉妹が存在する。かれらが宗像神話の三柱の女神に変容する、あるいはかれらを変容させようとした、試みが長篇詩『姉の島』である。
  自己の存在の根をえぐり、さらけだし、読者に差し出す詩人はいたいたしいほどに強靭であり、また、痛切な悲しみにみちている。詩人はその痛みをこえ、三柱の女神として姉たちをまつり、痛みを昇華し、純化し、そうすることによって、自己を確立しようとしたのである。主題の高邁さにおいて、構想の雄大さにおいて、これは現代詩として稀有な試みであり、高橋陸郎の豊かで確かで、しかも眩めくような措辞によってはじめて成就しえた作である。私自身はこの詩集を読みすすむにしたがって、詩人の痛みを共有するように感じ、読みおえてわが心が浄化されたかのように感じたのであった。この詩集ほどに近年私が感動した詩集は他にない。だから、私ははやくからこれを詩歌文学館賞に推したいと思っていたので、大岡信さん、白石かずこさんのお二人の賛同をえられたことは私にとってうれしいことであった。
  どうして三人の姉が三柱の女神に変容していくのか、その過程が描かれていないのではないか。また、この詩集の作者は零歳児の視点で姉たちを見ており、詩人がこれまで過ごしてきた半生の体験が捨象されてしまっているのではないか。そうした指摘がありうることはふしぎではない。そのような過程がもっと説得力をもって造型され、そこに詩人の半生がにじみだしたとすれば、より一層の感動をよびおこしたかもしれない。ただ、私としては、この長篇詩は自己を確立するための祈禱と考えている。祈りとはつねに飛躍があり、祈りとはつねに零点からなされるものだ。もし、上に記したようなことがこの作品の瑕疵だとすれば、それはこの作品の基本的な性格に由来するのであり、そこまで書きこんでしまうと、逆に、この祈禱は祈禱として成り立たなくなり、また、作者の自立の試みも破綻することとなるのではないか。
  ここで詩人が試みたことは、そういう意味で、危い力業のようなものだ。この詩人の力量と気魄によって、ともかく危い力業がなしとげられたのだと私は考えている。