倉橋羊村「自在さは老年の理想境」

著者 倉橋羊村
タイトル 自在さは老年の理想境
出版年月/出版社 受賞回[年] 7回[1992年]
分野 俳句 分類 選評

  沢木欣一、稲畑汀子と私の新選考委員による俳句部門の授賞は、当初それぞれの推薦候補者が異ったため、難航を覚悟したのだが、話し合ううちに阿波野青畝を推すことに決まって、まずは一同肩の荷をおろした思いである。この人ならば、ともあれ不足はないという気持ちが、他のお二人にもあったので、一致して推す結論が得られた次第である。
  青畝は虚子門の高弟で、水原秋櫻子、山口誓子、高野素十と共に四Sの一人として知られ、ことし九十三歳の高齢ながら、俳壇の現役の長老として活躍中である。昨年刊行の句集『西湖』は収録句数一、五〇〇句あまり、卒寿を越えてますます自在で、深い句境が展開されている。句柄の大きさは虚子ゆずりといえよう。以下、紙数のゆるす限り、作品をあげて紹介したい。

    初夢や亡き父なまの声放つ

  夢の中での「なまの声」が、単刀直入の表現で、すこぶる実感がある。

    太陽へ地虫は八字ひげを振る

  土があたたまると、地虫が出てくるのだが、明治男さながらの八字ひげが面白い。ひげの復活した当今の世相と巧みな接点を持つ。

    葱坊主炸裂せずにをられまじ

  葱は晩春、茎の先に白い球状の花をつけるが、一見ロケットの頭部を思わせ、エネルギーや鬱のかたまりとも見られるのだ。起爆力のイメージが出てくるゆえんである。

    泥しぶきとび田搔牛目をつぶる

  牛を使う農耕は減ってきたが、こね返された泥が牛の顔にはねとぶこともある。大きく剝いた牛の目が、とっさに泥のはねを避けて閉じられるのだ。

    うしろ手を突くその絵師の秋思かな

  和服姿の絵師だろう。一息入れようとうしろ手を突くさまは、秋思というに相応しい。こういう風俗やふんいきを出すには抜群の表現力を要するので、当代の作者として貴重な存在である。

    蜘蛛の糸断たれてちぢみゆく力

  粘着力のつよい蜘蛛の糸は、断ちきると見るみるちぢんでゆく。この糸のふしぎさを見守る好奇心が、一句の詩因となっている。

    春寒し釘はくの字になりたがり

  打ち損じた釘は癪のたねだが、季感の配合が巧い。くの字の釘の姿が見えるようだ。

    焚火魔としての寒山拾得視

  禅坊主の寒山、拾得もいまならヒッピーまがいの風体だったろう。所かまわず焚火をするので焚火魔といっていい。うっかり放火魔と間違われかねない。奇想天外の発想だ。