森澄雄「俳諧自在―その孤心とあそび」

著者 森 澄雄
タイトル 俳諧自在―その孤心とあそび
出版年月/出版社 受賞回[年] 3回[1988年]
分野 俳句 分類 選評

  第一回の平畑静塔氏の『矢素』、第二回の加藤楸邨氏の『怒濤』の単独句集とちがって今回の『橋閒石俳句選集』は、既刊の『雪』『朱明』『無刻』『風景』『荒栲』『卯』『和栲』の七句集、及び『和栲』以後の全作品より自選、抄出した千六百句を越える大冊。橋閒石氏は今年八十五歳の高齢、まずはその生涯の句業を見通す作品集であろう。
  氏は京大英文科を出て、神戸商大、親和女子大教授を歴任した英文学者、俳句ははじめ義仲寺無名庵十八世をついだ俳諧師寺崎方堂に連句を学び、すでに『俳句史大要』の著があり、俳人の出自としても独自の道を歩いた人、現在、句誌「白燕」主宰。
  だが、ぼくが氏の作品をはじめて読み、関心をもったのは、恵贈をうけた句集『荒栲』からであり、何よりもその「あとがき」に書かれた
「喜びも歎きも、安らぎも苦しみも、病み衰えまでも含めてのいっさいに遊ぶこと」をひたすらに願っていること、ぼくも人生のそれら一切を含めて俳諧のめでたさを考えている点で共感を呼び、ついで『和栲』の「人生を劇の舞台に喩えた詩人の台詞も悪くないが、私はむしろ、歌舞伎の花道を更にさかのぼった能の橋懸りに、ふかい興味を覚える。もともと、神を迎えて送る道筋から始まった形象らしいが、そのような詮索はさておき、とりわけ、引き上げる際の演者が、垂幕のむこうに消えるまでの呼吸の意味を、考えずにはおれないのである」
という「あとがき」の一節に感動した。『和栲』が蛇笏賞を受けたとき、「したたかな生の晩景」という一文を書いたが、やはり同じことを書いておきたい。あえて言えば、ここに氏の行きついた人生観、俳諧観、美学の一切をふくめて、晩年の風景が見えるからだ。
    故山我を芹つむ我を忘れしや
    はらわたに昼顔ひらく故郷かな
    夏風邪をひき色町を通りけり
    春の猫抱いて川幅ながめおり
    桜など描きて冬の寺襖
    縄とびの端もたさるる遅日かな
    麦秋の乳房悔なく萎びたり
    樽柿をふたつ啜りし暮色かな
    しぐるるや夢みるための眠りさえ
    八十の思いを余花と云い得るや
    ……
など、孤心とともに、おのれを囚われぬ遊びの中におき、しかも広く人生と俳諧に相わたりながら、おのずから見えてくるいのちの晩景、さらに意志的に見据えようとする晩景……。そこにこの作家の作家的健康とともに、またしたたかな俳諧の妙味がある。
  毎年、京都の円山公園や吉野の桜を見に行くが、去年は信州立科の山近くの老樹の桜を見に行った。円山も吉野も、桜の方で見られることを知っているようなあでやかさと豊満の咲きぶりだが、誰も見ない立科の老樹の桜には、孤心の自足、風にさやぐ遊びにも、媚をもたぬ清潔な美しさがあった。橋閒石氏の風情か。