藤田湘子「清冽な虚構『雨の樹』を読む」

著者 藤田湘子
タイトル 清冽な虚構『雨の樹』を読む
出版年月/出版社 受賞回[年] 17回[2002年]
分野 俳句 分類 選評

  寒玉子のこる一つは夢みがち
 うぐひすや午前七時は夢明り
 夢を見て何色になる彼岸すぎ
 新聞にくるまり鮒の夢まぼろし
 夢に見て紅い椿を折りにゆく
 瓜番の浅き夢みしあと灯す
『雨の樹』から「夢」の字を用いた俳句を拾ってみた。著者の清水径子は明治四四年生まれ、ことし九一歳。はじめ秋元不死男の「氷海」に拠り、不死男没後は永田耕衣の「琴座」に属した。「俳句もの説」を唱えた不死男からは〝見ること〟を教えられ、耕衣からは虚構のおもしろさを享受したのではないか、と思う。
 夢の世に葱を作りて寂しさよ  耕衣
という絶唱が耕衣にある。「夢」は径子の本質であり、耕衣の遺産と言えるかもしれない。
 おいしい水にわれはなりたや雲の峰
 執拗にぺんぺん草の前に居る
 焼藷のある今生といふところ
 たちどまるまでは朧と知らざりき
 ただ単に吊るされてゐる夏衣
 アネモネになりたる事も夜明けまで
 私の好きな句を挙げた。『雨の樹』の句集名は「あとがき」を読むと、
   私は雨に濡れたやさしい樹々が大好きである。
 ならば最後の句集には、ひっそりとこの名を
 つけておこうと思い定めた。
と書かれているが、雨に濡れた樹ばかりでなく、著者はさまざまないのちに心を寄せ、存問している。虚子は且つて「お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句である」と言ったが、『雨の樹』の諸作も、すべてこれ存問の詩である。それだから句に濁りがない。清冽な瀬音を聞くような快感につつまれる。近頃の俳句は、清韻、清爽といった風趣を忘れたかのように、濁って卑しくなっていると私は思うのだが、清水径子はそんな風潮に超然として、いつも夢、純粋を求めてきたようだ。
 そして右に挙げた六句。第一句の「水」は著者の好きな対象。単なる水ではなく「おいしい水」になりたいという願望が、あざやかである。第二句。こういう押しのつよい作品を生み出すエネルギーに、ただただ頭を下げるのみ、である。そして、ぺんぺん草という言わば取るに足らぬ季物を、これほど確かに詠いあげたことに驚きを禁じえない。
 第三句の焼藷は楽しい。焼藷があるゆえに生を堪能している趣は、師の耕衣の諧謔と相交うものがある。第四句の朧、第五句の夏衣も、朧でなくてはならず夏衣でなくてはさまにならぬ、というふうに仕上っている。季節感をまぎれなく把握することは、俳人にとってきわめて重要なことであるが、この点も現今の俳句作者に欠けた一面である。『雨の樹』は、季節感の清清すがすがしい句集でもある。
 最後のアネモネの句も、「夢」である。夢と現実とまぼろし。
 最終候補句集の中から、この『雨の樹』がすんなり選ばれたのは、以上述べたようなことが、阿部、岡本両選考委員の胸にもあったからだと思う。