塚本邦雄『詩歌變』(1986年9月/不識書院)

著者 塚本邦雄
タイトル 詩歌變
出版年月/出版社 1986年9月/不識書院 受賞回[年] 2回[1987年]
分野 短歌 分類 作品

[略歴]
  大正十一年八月七日、滋賀県生れ。彦根高商卒。昭和三十四年第三歌集『日本人靈歌』で現代歌人協会賞受賞。序数歌集十五の他に『塚本邦雄湊合歌集』、詩歌関係著書百冊以上。

[受賞のことば]
  受賞の通知を聞いた時、一瞬宮沢賢治の短歌が心をよぎった。「猩々緋雲を今日こそふみ行けと躍るこゝろのきりぎしに立つ」、大正五年作者二十歳の十月制作と伝えるこの歌さながら、私も今、心の絶顚に、同時に詩歌の断崖に立った思いである。天才が二十歳で早くも極めたきりぎしは、なお私の前にそばだち、彼が易々と別れを告げたこの韻文定型詩に、私はあくまでも執着し、更に懸けようとしている。賞を機に一層の研鑽を誓おう。

 
[作品抄出]

詩歌變ともいふべき豫感夜の秋の水中すいちゆうに水奔るを視たり

生はたまゆらの宿りか一陣の秋風が銀桂林をつらぬく

臘月の月光うつそみにれり魂魄のわだかまれるあたり

鮟鱇の口の暗黑のぞき見つなにをか戀のかぎりと言ふ

六月は萬象うるむ家妻がまれまれにはく足袋のしろたへ

靑疊に寢そべつて「オデュッセイア」讀む總領抹香鯨のごとし

夕凪に消墨色のそびら見せて男てふおろかなるものあゆむ

いふほどもなき夕映にあしひきの山川吳服店かがやきつ

靑嵐去れり五十を晩年とおもひしばらくのちにおもはず

君が知命以後の思惑不詳にて時に佛陀のごときくちびる

六十にして立たざれば嵯峨菊の懸崖に似て人の世たのし

鼻梁秀でて沒落家系白日のもとに鮟鱇一尾提げたり

晩春のわが家領する黑き影は金輪際チーズくらはぬ母

夢は前世をさすらひ花川戶助六と川をへだてて住めり

あそびめに髪切られける小結の力士熊野灘ののち知らず

齒の金冠ゆるみたりけりあはれなる異變は夕映のなかにきざす

幼名百合若長じてとんだ遊冶郎雜種の仔らの父たりし犬

錫色の盥波だつ大海鼠彼やすやすと初心に還る

鬱金櫻の朽ちはつるころ輪唱のわがバスを彼のバリトンが逐ふ

一人生みたるのみに孤りとなり果てし母あはれ綠靑のなつごろも

哲學のしきりかなしも短夜に小便の木は露滿つる刻

秋風に雲母きららのごときまじれるを言へりしがきのふはや不歸の客

淡雪は水湧くところ降りのこす歌はざる口げにうるはし

曇日どんじつの底のよどみに白牡丹咲いて一人いちにんの貧あらはなり

いづこよりきたりしものぞほそりつつ齒科醫師會館前の氷塊

火星ちかづく夏といへるに隣家には何ぞこの窈窕たる少女

今生のねがひ何なる六十を越えつつ男朗花が泡だつ

白壽かならずしも遠からずあかねさすあけぼののわがこころさわぐ

晩年と呼ぶべき時は逸しつつほのかなり秋の麒麟草の實

冬暑しわれが數百すひやくの偏見のなかなるひとつ赤彥嫌ひ

歌を得たりと思ふ四月のあはつけきわれのこゑうつそみを離るる

母の忌といささ風吹きけふのみは女人を思はざる柿の花

みなづきに往きて住みなむうつくしき國たとふればなまよみの甲斐

薔薇垣荒れてかなたこなたがつつぬけに見ゆる秋袷のまるあらひ

あかときのこゑ濃きはなだはつなつのわれに懸命の調べあるなり

二人行けど行きすぎがたき立春の店仕舞「クロコダイル」靴店

盤白柚ばんぺいゆうむく手力のすさまじくたましひといふものがここにある

遺言の二行抹消忘れゐしことおもひいづ馬醉木あしびの殘花

銀碗は人血羹を盛るによしこの惑星にゐてなに惑ふ

枇杷の汁股間にしたたれるものをわれのみは老いざらむ老いざらむ

歌を量產して大寒の日々ありき蓼科たでくわままこのしりぬぐひ萌ゆ

雲の中あゆみきたりて一莖の花得たりくれなゐの言の葉

よるのひばりのこゑおそるれば死のきはの枕頭ちんとうにしてきらめく砂金

朱の硯洗はむとして息を呑む戀人よみごもりつつあるか

崩御ほうぎよとはかぎらざれども鮮紅の夕映ののちに何かがおこる

ふりかへればまた父戀のはじまらむ紅梅の空炎えつつ寒し

藥石效無しと念ふにおほちちの綠内障のまみどりの天

歌に果つる一生ひとよと想ひ念はざるゆふまぐれくれなゐのさかづき

連翹連翹連翹さむし亡き友がこのあかときをしはぶきやまぬ

みちのくに霰ふれるかわが身よりゆゆしき歌ごころ湧きいでつ

父のあはれの底ぞ知られぬ白罌粟を蒔けばすなはちあさきくれなゐ

五月終るべし歌人うたびとのまなこより山河はくらきよろこびに滿つ

歌すつる一事に懸けて晩秋のある夜うすくれなゐのいかづち

戀ひ戀ひてことばやつるる夏三月みつき六腑はるけき潮の音する

わが秀歌半旗のごとし黃昏くわうこんをしろたへの秋風にむかひて

歌にあらざるものぞ戀しき一身にその日その日の露滂沱たり

撞著して試論成らざる一日のすわりなほせばはたと立春

妻二人ありと聞きしが六曲の捕鯨圖にきさらぎの烈風

歌ありし日の夕つかた望みける山櫻なりふるへやまずも

白晝のおもへばくらき心奧しんあうにひとつ螢の翅ひらくさま

(掲載作選出=島田修二)