武川忠一『翔影』(1996年7月/雁書館)

著者 武川忠一
タイトル 翔影
出版年月/出版社 1996年7月/雁書館 受賞回[年] 12回[1997年]
分野 短歌 分類 作品

[略歴]
  一九一九年一〇月一〇日、長野県諏訪市生れ。早稲田大学文学部卒。『秋照』で迢空賞。歌集に『氷湖』『窓冷』『青釉』等。研究書『土岐善麿』の他、近・現代短歌論も多い。

[受賞のことば]
  受賞のお知らせをいただき、ほんとうに思いがけないことと、感激しております。
  思えば、半世紀以上も、ぽつぽつと歌を作ってきました。ぽつぽつと作ってきて、この何年かは、作歌の楽しみのような思いも感じるようになりました。それにしても、短歌という形式は、不思議な、怖い器という思いを新たにしています。これからもそう思い続ける間は作歌をしていくことができるだろうと思います。
  七十歳になろうとするときから、三年間の作で、一区切りの気持とともに、改めて心励まし、身をひきしめて歩きたいと、自分に言いきかせています。

 
[作品抄出]

雪ぞりを曳きゆく童女背に負えるおさなに何か言いかけながら

雪の峠越えて宿らん村の道大戸を閉ざす重き音する

冬の野を閉ざして動く夕霧に父の齢の身はしびれ立つ

たましいか身か軽々とさまよえる雪やわらかし森の小うさぎ

力抜けし腕と脚あり夢のなか冷たきノブを押していたりき

春の雪雫する音やまぬ夜を亡きものとするわが雪祭り

みぞれつつたちまち春の雪となる湿る雪道踏み登りゆく

ながらうというはなになる凡庸に狭く苦しみ狭く拒みき

ガラス板截る若者が尺当ててきらりと腕をひき下したり

みずからの意志のごとくに身の細り思惟菩薩とぞなりましにける

くれないのままの花首べったりと椿落ちたり落ちてかがやく

さやかにもたが緊むる技かの桶屋愉しかりけむ緊まるそのきわ

はびこりて花のやさしきいぬふぐりためらいもなく鎌にかきゆく

あかときを葉守りの神の目覚めたり森はひそけく語り続くる

われと妻と座敷わらしと夜の更けを点してガラスの雫見ており

白紙を展べて歌詠むつたな歌つぶやくままの睦月ぞ今日は

すぎゆきの崩るる崖をもう詠むな過去は未来を青く研ぐあぐ

身に負いて阿修羅仏の匂う夜一世よるひとよはなべて還らぬぞよき

猿に曳かれ年経て帰る白き馬ほれぼれと聞き穉かりにき

五臓六腑しおれてたるむ身体の精神こころの洞を風立つらしも

対岸の火と為すすべのありやなし長き戦後を生きてわが恥

簡明に同心円彫る土器の蛙豊かに腹をかかえたる腕

地下街にまよいてしばらく立ちどまる地下街というは恍と明るし

ほとほとに忘れんとする魂のありかをさするごとくも腹を

つんつんと三つ伸びたるつの芽ども柔らに角のふくらみてくる

つきつめて人は語らず鬱とだになることもなきその残年を

棚からのぼた餅はよし寝太郎君今朝寝足らいて甘きもの欲し

耐えること少なくなれど言いたきも少なくなれば沈黙ぞ金

一つ一つ離れてゆきぬかろがろと昨夜よべの夢みな空の夕雲

いそぎいそぐ時間の合間綿あめの舌ざわりのごとし秋夜ひととき

大つごもりすはだかに湯をいでてきしゴムマリ童女拭いてたのし

かもめどりゆられつついる波の尖鋼さきはがねのごとく立ちあがりたり

逆立ちをしてみたきかな霜月の街をゆきつつとりとめもなし

書き残す賀状さもあれ片よせて押しやるいまの時の間があり

はぐれ鳥夜をはばたきてくくと鳴くおおつごもりを歌詠まんかな

(掲載作選出・田谷 鋭)