辻征夫『河口眺望』(1993年11月/書肆山田)

著者 辻 征夫
タイトル 河口眺望
出版年月/出版社 1993年11月/書肆山田 受賞回[年] 9回[1994年]
分野 分類 作品

[略歴]
  一九三九年八月一四日、東京生れ。明大卒。『かぜのひきかた』『天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想』で藤村記念歴程賞、『ヴェルレーヌの余白に』で高見順賞を受賞。詩集『学校の思いで』他。

[受賞のことば]
陸奧の鬼の魂が私を呼んだ
  ロジェ・グルニエ『チェーホフの感じ』(山田稔氏訳)によると、チェーホフはプーシキン賞を受賞のとき、「こんなことになったのは、おそらく私がザリガニを獲ったからでしょう」と言ったそうですが、私はべつだんヘンなものは何も獲りませんでした。思いあたることといえば、今年二月始めから私は私の安達ヶ原の物語を書くために、「黒塚」を持ち歩き、幾度となく読み返していましたが、きけばこの賞の正賞は鬼剣舞の手彫り面とのこと、これは陸奥の鬼の魂が私を呼んだのにちがいありません。

  
[作品抄出]

  ハイウェイの事故現場

詩を書く前には靴を磨くね
六〇年代のいつだったか
リングで死んだデビー・ムーアが
試合の前夜いっしんふらんにリングシューズを磨いていて
たまたま取材に訪れた記者に
きみの靴も磨かせてほしいといったそうだけど
あれと同じかな
普段履いてないのも下駄箱から出して
五足も六足も磨くんだ
  
部屋を片付けていることもある
自分の部屋ではなくて  テレビや食卓のある
リビングルームさ
それから急に思い出して
電話をかける
だれでもいいんだ
どこか遠くに住んでいる
母だったらいちばんいいけれど
もう死んじゃったよ
(父だと困るな
あのひとは電話だと殆どなんにもしゃべらないんだよ
やはり死んだからなおさらだけど)
  
することがなくなったら自分の部屋に閉じこもって
うろうろしているほかはない
胸も  喉も  眼も
悲しみでいっぱいで
泣きたいし  叫びたいしもうどうしようもないんだ
なにが悲しいのかって
きかれても困るけれど
  
それでその次に原稿用紙かノートに向かって
詩を書くんですかってききたいんだろう?
書きゃしないんだよ
家族の会話や  窓からの街のひびきが
いつのまにかきこえなくなって
ほらテレビのコマーシャルで見たことない?
岩山だらけの平原の
地平線の向こうまで殺風景にのびているハイウェイ
悲しみだけがあんなふうにどーんとつづいていて
  
もちろんそこに
放り出されているのがぼくなんだ
ふりむくと
ことばの破片が
事故の痕跡みたいに落ちていることがあるけれど
それだけさ

  

  そしてきみたちが寡黙な影となって

そしてきみたちが寡黙な影となって
さらに上流へ行ってしまってから
もちろん僕も竿をのべて
いくつかのポイントは探ったのだが
  
ひとりになると激しい水音の奥に
知らないひとたちのさわめきが混じりはじめ
ぼくは現実の川を見ているのか夢を
見ているのかわからなくなってしまったのだ
  
青い羽の鳥が暗い木の枝から
水に突き刺さり魚をくわえて飛び立ったが
そのとき鋭い痛みを感じたのはぼくが
すでに川になっていたからだろうか
  
普段のぼくなら鳥は一篇の詩を
創り出そうと尖鋭化したぼくの意識で
魚は意識下でうごめくものの断片
ぼくの夢の原形だと語るところだが
  
一瞬心臓を直撃した悲哀は意外におおきくて
ぼくは竿とびくを川原に置き
渓流の石のあいだに沈めておいた
ウィスキーの小壜を取り出した
  
育ちすぎた野生の独活うどは固くて食べられないが
齧ると鮮烈な香りが口中にひろがり
ぼくはきわめて現実的な姿勢で魚をもとめて
水を見つめているにちがいない二人の友
  
ぼくを渓流にいざなってきた
nakagamiyagiのことを考えながら
乾いたおおきな石に腰をおろした

  

  電車と霙の雑木林

みぞれの雑木林のはずれを
電車が通過して行きました
いくたりかの乗客がいましたが
窓に顔をおしつけて
霙の雑木林を眺めていたのは
子どものときのわたくしです
子供は
冬枯れの景色を覚えていて
作文を書きました――
霙の
雑木林に
背の高いひとがいて
ぼくを見ていた
くぬぎ
けやき
いぬしで
うつぎ
こぶし
やまざくら
霙の雑木林で
そのひとは
電車の中のぼくを見ていた
傘をさして
黒いコートで
霙の雑木林のはずれを
電車がガタピシ通過して行きましたが
あの小さな乗客が
ここに来るまで
およそ四十年かかるというのは
気のとおくなるはなしです
いくつかの都市と
学校と
いくつかのこころの地獄を
なんとか通過して来るのですが

  

  虻

眼を閉じていても
きみがきたのはわかる
静かに  耳もとで囁くからだ
(なにをしているの?)
雨を聴いているんだ
たくさんの水滴がすこし斜めの直線になって
木々の葉や舗石に落ちる音を聴いている
はるかな高みからきたものが
この地上の事物に出会って発する音響
はまるでひとのないめんのざわめきのようだ
(ざわざわざわざわ  ざわざわざわざわって
風や水のながれのような音がしているのね)
そうかもしれない  けれど
不思議だ
きみの声だけを聴いていると
かつて少女の頃にぼくから去った
いとけないものがもどってきて
そばにいるようなきがする
きみが
雨のひとつぶ  あるいは虻みたいな
妖精だなんて思えない
(眼をあけてごらんなさい)
いやだ  雨がやむまで
眼はあけない

  

  地下鉄

地下鉄のホームへ
階段を降りてたら若い二人が
柱のかげでキスするところ
女の顔がこっち向きだったものだから
ぼくとばっちり
眼があってしまった
女は顔を離してぼくを
びっくりした目付きで見つめ
ぼくはべつだんびっくりしないで女を見つめ
このときぼくたちは知りあったってことになるのだろうか
微醺を帯びてたぼくは頷いて手を振り
女もちいさく
(男の頭のまうしろで)
手を振った
さようなら
会うは別れのはじめって
こういうことだね
ぼくはこれから
地下鉄へ
きみは男の唇へ
それから未知の
それぞれの人生の
果てへ

  

  河口眺望  S・H氏の銅版画

双眼鏡で遠くを見ていた
遠くには海が  海には巨大な貨物船が
ゆっくりと航行していたが
海が見たいわけではなかった
まして遠くを  遠くには夢が
などとばかげたことを思って
いるわけではなかった
ただ悲哀のネッカチーフを首に巻いて
あしたは崩れるにちがいない
瓦礫の堤防に立って遠くを見ていた
遠くにはよどんだ海が
海には巨大な貨物船が
ぼんやりと浮かんでいたが
その船の行方に思いを馳せるわけでもなかった
ときには遠くを見る姿勢のまま
瞑目していることもあった
空には積乱雲が  水平線には別の船影が
見えることもあったが
双眼鏡を持つひとは朽ちかけた杙のように
堤防に立って動かなかった
その細いちいさな影を支点として
水と大気はすこしずつ傾き
季節は(堤防が崩れるあした)へ
移行しはじめた

(掲載作選出=那珂太郎)