谷川俊太郎『私』(2007年11月/思潮社)

著者 谷川俊太郎
タイトル
出版年月/出版社 2007年11月/思潮社 受賞回[年] 23回[2008年]
分野 分類 作品

[略歴]
  一九三一年東京都生まれ。都立豊多摩高校卒。一九五二年、第一詩集『二十億光年の孤独』出版。以後、詩、エッセー、脚本、翻訳などの分野で文筆を業として今日にいたる。詩集に『愛について』『定義』『はだか』『日々の地図』『詩人の墓』、エッセー集に『散文』『「ん」まであるく』『風穴をあける』などがある。

[受賞のことば]
  いつの間にか詩を書き続けて半世紀が過ぎてしまいました。鉛筆がワープロになりパソコンになり、詩を文字で書き続け、声で届け続けて暮らしてきました。詩の祭りで海外に行きました。何人かの詩友を見送りました。しかしまだ、詩を心から信じる気持ちになれません。でも詩を書くのは年をとるにつれて楽しくなってきていますから、この賞もまだ書いていいんだよというお許しを得たようで嬉しいのです。ありがとうございます。この感謝の気もちは選考して下さったかたがたのみならず、その背後の読者の皆さんにも向けられています。

 
[作品抄出]

  自己紹介

私は背の低い禿頭の老人です
もう半世紀以上のあいだ
名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかと言うと無言を好みます

私は工具類が嫌いではありません
また樹木が灌木も含めて大好きですが
それらの名称を覚えるのは苦手です
私は過去の日付にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています

斜視で乱視で老眼です
家には仏壇も神棚もありませんが
室内に直結の巨大な郵便受けがあります
私にとって睡眠は快楽の一種です
夢は見ても目覚めたときには忘れています

ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか噓くさい
別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません
夏はほとんどTシャツで過ごします
私の書く言葉には値段がつくことがあります

 

  河

土気色の水がためらいがちに流れていて
それが河なのだった
地下に棲む形をもたぬものの末裔
水が海へ向かっているのは知っているが
いつどこから湧いてきたのかは知らない

電車が河を渡ると隣の若い女が欠伸した
その口の小暗い奥からも湧いてくるものがあって
突然私は自分のアタマがカラダより愚かなことに気づく

電車に揺られているカラダの私が
ほとんど水でできていることを怖れて
アタマの私はコトバで自分を支えている

いつか遠い昔  どこか遠い所
コトバの量はいまよりずっと少なかったが
冥界とつながるその力は多分ずっと強かった

水は海に雲に雨に氷に姿を変えながらも
この星にとどまる
コトバも演説に詩に契約書に条約に姿を変えて
この星にへばりついている

この私もまた

  

  「私」に会いに

国道を斜めに折れて県道に入り
また左折して村道を行った突き当たりに
「私」が住んでいる
この私ではないもうひとりの「私」だ

粗末な家である
犬が吠えつく
庭に僅かな作物が植わっている
いつものように縁側に座る
ほうじ茶が出た
挨拶はない

私は母によって生まれた私
「私」は言語によって生まれた私
どっちがほんとうの私なのか
もうその話題には飽き飽きしてるのに
「私」が突然泣き出すから
ほうじ茶にむせてしまった

呆けた母ちゃんの萎びた乳房
そこでふるさとは行き止まりだと
しゃくりあげながら「私」は言うが
黙って昼の月を眺めていると
始まりも終わりももっと遠いということが
少しずつ腑に落ちてくる

日が暮れた
蛙の声を聞きながら
布団並べて眠りに落ちると
私も「私」も〈かがやく宇宙の微塵〉となった

 

  ある光景

人っ子一人いない野原に立ったつむじ風が
行き場を失って戸惑っている
気化した夥しい涙は綿雲となって
瀕死の青空の片隅に浮かぶ

草のあいだに点々と骸が転がっているが
それを啄ばむ鳥たちの姿はない
かつて音楽と呼ばれたものの気配が
気弱な背後霊のように漂っている

人々が考え語り書き継いだすべての言葉は
そもそもの始まりから間違っていた
生まれたばかりの仔犬に向けられた
無言のほほえみだけが正しかったのだ

海がひたひたと山々に近づき
星がひとつまたひとつと瞑目する
「神」がまだいるからか
それとももう死んでしまったからか

世界の終わりはこんなにも静かで美しい…

と  私は書いてみる
言葉には私の過去ばかりがあって
未来はどこにも見当たらない

 

  朝です

寝床の中でまずのびをします
むっくり起き上がります
おしっこします
新聞を取ってきます
私は微小なパワープラントです

散りかかる落葉の力
むずかる幼児の涙の力
遠ざかる口琴の響きの力
何気ない句読点の力
おはようの力

見えないマトリックスが
微小なパワーをむすびつけます
私もそのむすび目のひとつです
テーブルの上に地球が載っています
私は地球と睨めっこです

人参ジュースを飲みます
デスクトップのスイッチを入れます
しばらくぼんやりします
思いがけないコトバが浮かびます
こんなふうに  水泡のように

 

  さようなら

私の肝臓さんよ  さようならだ
腎臓さん膵臓さんともお別れだ
私はこれから死ぬところだが
かたわらに誰もいないから
君らに挨拶する

長きにわたって私のために働いてくれたが
これでもう君らは自由だ
どこへなりと立ち去るがいい
君らと別れて私もすっかり身軽になる
魂だけのすっぴんだ

心臓さんよ  どきどきはらはら迷惑かけたな
脳髄さんよ  よしないことを考えさせた
目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた
みんなみんな悪く思うな
君らあっての私だったのだから

とは言うものの君ら抜きの未来は明るい
もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥に溶けよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう

(掲載作選出・新井豊美)