入沢康夫『アルボラーダ』(2005年8月/書肆山田)

著者 入沢康夫
タイトル アルボラーダ
出版年月/出版社 2005年8月/書肆山田 受賞回[年] 21回[2006年]
分野 分類 作品

[略歴]
  一九三一年島根県松江市生れ。東大文学部(仏文)卒。詩集に『倖せそれとも不倖せ』『季節についての試論』『わが出雲・わが鎮魂』『死者たちの群がる風景』『遐い宴楽』など、詩論集に『詩の構造についての覚え書』『詩にかかわる』などがある。

[受賞のことば]
  日本現代詩の主流をなしている誠実かつ生真面目な作風に対してことさら背を向け、辺境から辺境へと渡り歩いて、半世紀あまりが経ってしまいました。
 このたび、わがまま勝手に書き綴られた道化的作品群からなる拙詩集『アルボラーダ』が、栄誉ある詩歌文学館賞を頂けることになりましたのは、まことにもって「嬉しい驚き」です。このような「異端的」詩集にも、なにがしかの意義をお認めになり、敢えてお選び下さった選考委員のお三方はもとより、関係者各位に心底からの感謝の気持ちを捧げたいと存じます。

  
[作品抄出]

  夢のなかで……

夢のなかで父といさかひをしてゐた。
夢のなかで?
いや、それは本当にあつたことだ、本当に。
ただし、五十余年のむかし、
十七歳の私と四十七歳の父。
父と言ひ争つてゐるうちに、
急に湧いて来た涙に狼狽して、
高歯の下駄を突つかけると、
背戸のを手荒く開け、
筧の水元の谷沿ひに登つて行く。
慌しく逃げ去る黄鶺鴒。
はや、かなり傾いた葉洩れ陽。
その條目すぢめをかすめて翔ぶかとんぼの翅が、
きらきら、きらきらと光つて、
私はいつさう悲しく、
立ち止まつてしまふのだ。
さうだ、やつぱり夢のなかでだ。

  

  (十三番目の……)

  四月が残酷な月だと言つた人があるけれども  月といふ       いふまでもなくT・S・エリオッ
月は程度の差こそあれ  残酷なところを持つてゐて  たと       ト。
へば  まつたくたとへばの話だが  五月は犬たちを発情さ
せ孕ませ  六月は麦藁帽の少女を沼に溺れさせる  七月は
瀝青を融かして家長たちの肌に引りを作り  八月は大口
開けてそれを笑ひ  九月は大アンテナの下でサーベルを無
意味に振り回し  十月はもう二度と逢ひたくない人を山の
あちら側から連れ戻し  十一月は水鶏くひなの頸をひねり  十二
月は樫の門扉に罅割れを作り  一月は星々を砂丘の襞々に
撒き  二月はその星屑が搔き集められて恥づかしい疾病やまひ
薬にされる

 
 (月々はまた  慈悲深い一面も持ち  たとへば  またもや
たとへばだが  五月は少年たちに途方もない悪戯を思ひつ
かせ  六月は沼藻を蔓延はびこらせて水魔の活動を抑制し  七月
は掃除ブラシを捨てて八月と取組み合ひの喧嘩をする  九
月は着弾点を故意にずらし  十月は泣き泣き海辺を歩き  
十一月は聞こえる筈のない蒿雀あをじの声に腹腸はらわたを千切り  十二
月は早起きして人の門出を送り  一月は夜空の麒麟に潤ん
だ眼を向け  二月は逆に頸を垂れてしきりに粥を啜る)

 
  だが  これらいづれもいささかならず平凡で意外に人間
化された十二の月を遥かに凌駕して残酷なのは  十三番目
の月  名無しの月  十三番目と仮に呼んだが  これは十二
月の次に来るといふのではなく  あたかも太陰暦に於ける
閏月うるふづきのやうに  時の流れに割り込んでくる  いな  閏月
とちがつて月の途中でも  いつでも構はず割り込み居座つ
て五十日  百日  容易に去らうとはしない  さういふ十三
番目の月  一切の形容語が失効する十三番目の月

 
  さういふ人間の境域を絶した「月」を私は  これまでに
何度か体験したやうに思ふ
  けれども「筆舌に尽くせぬ」その「内側」その「実態」
そのほんの「欠片かけら」なりとも  意味を持つた言葉にして  
他人ひとに伝へ得る日  そんな日が来るものだらうか  来るも
のだらうか  果して

 

  是无等等呪ぜむとうどうしゆ

 
 
 
  羯諦奄摩尼善良狗                                          表題の「是无等等呪」は玄奘漢訳
                                                           『般若波羅蜜多心経』の結び近くに
                                                            ある言葉で、「コレニ匹敵スル呪文
                                                            ハ無イ」、つまり「コレコソ至上ノ
                                                            呪文デアルゾ」の意である由。

 
  羯諦奄摩尼善狗声                                          本篇は笠置シズ子さんへのリスペク
                                                            ト。

(掲載作選出・三井葉子)