三井葉子『草のような文字』(1998年5月/深夜叢書社)

著者 三井葉子
タイトル 草のような文字
出版年月/出版社 1998年5月/深夜叢書社 受賞回[年] 14回[1999年]
分野 分類 作品

[略歴]
  一九三六年一月一日大阪生まれ。相愛女子短期大学卒業。七六年『浮舟』で第一回現代詩女流賞。詩集に『沼』『まいまい』『夢刺し』『日の記』など。随筆集に『つづれ刺せ』『ええやんか』『恋のうた』など。「樂市」編集人。

[受賞のことば]
  有難うございました。書く者はことばと出会うよろこび、出会いながらなにごとか形姿になるよろこびを暮しています。詩を書いて四十年ばかり。そのようにして暮しました。若い時は作品を賞めていただくと、まず生き方がまちがっていなくてよかったと思っていました。
  きょうはこのような賞をいただきまして、たくさんのことばたちとわたしのひそかな祭場タナに花が舞うような、と思っております。
  明るくしていただきました。
  ご選考下さいました委員の方々、関係の方々に厚くお礼を申し上げます。

 
[作品抄出]

  草のような文字

  逢いたいと言ってしまうと堰の切れたようになるので、ちらちらと気を散らせているぶん疲れています。
  これは夢の中のようなことで。夢に奪われているようなことではどうするの、と言って足を地上にも繫がるようにしなければ、と思うのです。
  離れているのでそう思うのね。そばに行きたくてむねの辺りからとんで行くような気持になり、そのうえ、あれやこれや思い出すと、そこだけがふっくらしてみえるので浮いている心地ですとおんなが言って遣りますと
  おとこから返事がきます。
  夢と言えば忘れていたけれどあれは数日前でしたか、あなたの夢を見た。なぜなのか理由は分からないけれど悲しくて、わたしはあなたの肩を両手で摑んで泣いていた。
  あなたの顔はよく分からないけれど、やはりうつむき加減に涙を溜めているようすです。わたしはときどき、夢の中で激しく泣き、目がさめるとほんとうに涙を流しているという経験をするのですが、そのときの夢もそうでした。どうしてあんなに悲しかったのだろうと、いまでも思います。
  玉の緒よ絶えなば絶えね。こいには一気に崩れ落ちてしまいたいような思いがいつもつきまとうけれど、こらえなければならないときはこらえることも要るのでしょう。
  おんなが返します。
  二、三日まえからなにかひとつに束ねて布を打つような、滝に打たれているようなこいしい思いがつのって、夜も目がさめてこいしゅうございます。
 
  来客の帰りがけに電話を貰い、とても嬉しかった。客を送って散歩がてら、よい天気の下を歩きながら初めて出会った日を思っていました。うしろを振り返るようなことはあなたは嫌いかもしれないが、先のことがよく分からないときはうしろに連なっているきれいな楽しい時間はなんと言っても宝石ですから、ときどき取り出して眺めます。
  秋篠寺にはさざんかが散らばっていたな、と思い出します。
  それから幾度も会ったのちでも、あなたの顔をよく見なかった気がして。
  なぜでしょう。たぶん、なにをしても初めてするように新しくて、だから初めてあなたを見つめたような気になるのかもしれない。
 
  おんなが言います。
  なにもかも新しくて、と言って下さいましたが、ほんとにそうね。
  はじめてのことばかり。たかあし踏むようにしてひらいて行くので、どんなになって行くのでしょうと思います。いまはあなたがわたしの中にいて下さるので、じぶんの手を握るとあなたに触っているようです。
  うれしくて足りています。こぼれてしまうのは惜しいけれどあなたとこうして日が過ぎて行くのですから。
 
  昨夜寝るのが早かったから、今朝の目覚めが早く、まだ薄暗いのに電気スタンドをともし、雨の音をききながら、こうして手紙を書こうとすると、何やら遠い旅先きにでもいるようなさびしさです。そんな感傷といっしょに、きみをいとしいと思う想いが、それこそ「押し寄せてくる」という感じで、それに耐えています。
  どうしてこんなに好きになってしまったのだろうと考えてみても栓ないことを折り折りふと考えては、ただふしぎな思いになるばかりです。
  窓の外の木に小鳥がきて、小鳥より少し大きい(鳩よりもちよっと大きい)鳥がきて、よくキョトンとした目つきで首をかしげたりしていますが「どうしてこんなに……」と思ったりするときのぼくも、たぶんあんなふうにキョトンとした顔をしているのかも知れない。
  自分では気づかないうちに、そうだったと分かった途端に、駆け寄るようにきみを好きになってしまった。
  勝手な言いぐさのようだけれど、きみがそこにじっと坐って、長いことぼくを待っていてくれたような気さえします。
 
  日があけるとまた風が吹いて
  きょうは午後から風が強くなりましたのに、夜は姉妹で会食しましょうということになって出掛けました。沢山、お喋りして口が疲れてしまった。食べ過ぎて、そんなときおんな達はほんとに行儀がわるくて、でも上機嫌です。暮れてから、ふと目が据わるように恋しゅうございました。
  出掛けていて帰るときは、あなたのおいでになる所へ帰る、という気持になって、うれしいような。ほんとうにそうだとどんなにうれしいでしょう。
  と、おんなお便りがおとこのもとに届きます。
 
  きみからの電話のあと、私も散歩に出た。昨夜の雨に濡れて、よその家々の椿や萩のあざやかなのを見たり、雀のとみに甘やかなさえずりを聞いたりしてぶらぶら歩いていると、その間にさえ、きみは私の胸の中から離れない。
  しっとりとして暖かい光です。もし、きみと一緒にいたら、「朝の食事なんか、あとでいいから」と、朝が過ぎ去らないうちに並んで散歩に出るかも知れない。きっとそうするだろうと思う。私よりきみのほうが草や木の名をよけい知っているだろう。それを聞くというよろこびもあるだろう――そんなことをとりとめなく思いながら歩いていますと、
「暖かい感傷」といった気分になる。思いながらしかし、朝、同じ家の中で目をさますというようなことが、とても出来ることなんかではないのだと激しく首を振るような思いで、思われる。仮りにもそんなことを思ってはいけないのだと自分に言い聞かせようとする。それと同じくらいの強さで、きみを欲しいと思う。
  きみをそばに引き寄せて、いつまでも話をしていたい。どんな小さなことでもいい。箸でつまみ上げるような小さなこともいい
  と、
  とうとう草が長けて穂綿が散ってしまっても、草のような文字がいつともなくつづいています。
 
  うべないながら境目にうっすらとひとすじ、草のように横たわる文字でした。
  うべないながらへだたっているふたりのあいだに吹かれている、ほそい草のような文字でした。

 

  見返りもくれん

萎びてしまわないで  どうか血を流して
溺れないで
ときは深く  鏡のように美しい
どうか死んで
せめておまえはしたたる雫で夜を染めて欲しい……古い日記を読んでい
  ます
わたしの十六の走りがき
 
そらに高く
ことしももくれんの花が咲きました
見返る花にひかりが差してとうとうばらりと咲いています
ときより早く走りたかった十六の――見返る首に背く首根に
差したひかりを思い出します
  
あれは確かに渡したはず
肉は肉に  闇は闇に渡したはず
それなのに
生れたとたんにまばゆいひかりが  わっとばかりの泣き声をあげ
ああ  そうだったのか
そのときあの子が立って歩いていったのか
 
そのあとは
振りむきながら見返りながらあの子は歩いてゆきました
ひかりの筵をほそいあしで
 
ときがゆくのは喩でしょうか
花が咲くのも喩でしょうか
喩の山坂を越えてゆくあれがかわいい子でしょうか。

 

  空頼み

ええ
ほっかり焼き上った焼き芋に歯を当てながら  わたしは
わたしの空頼みの空を思い出すのです

この世では会えないひとを
それでもあきらめられなかったとうのわたしが  とうで死に別れたひとと
シクラメンの花が咲いたらね
あの小川のふちでと約束した  約束を思い出すのです
 
もう  いちど
いいえ  まいにち
いつもいつもそばにいてねとわたしは頼みました
それならば今生こんじようはうらみませんとわたしは明るい空に頼んだのです
虫が飛ぶような飛びたつ思いで
 
「見ずして信じることこそ幸いなのに……と或る日かのナザレびとは
明るいガリラヤの風の中で言われた
山上にシクラメンが咲いていました
空には蚊柱のような熱が立っているのでした
それが  わたしに触ったはじめての熱でしたが
 
ええ
みだらでしたとも
わたしの空頼みの空にはいつも唸る蚊柱のような熱が立っているのでし
  た。
                * 福音書(ヨハネ二十―二十九)

(掲載作選出・清水哲男)