永田耕衣『泥ん』(1990年6月/沖積舎)

著者 永田耕衣
タイトル 泥ん
出版年月/出版社 1990年6月/沖積舎 受賞回[年] 6回[1991年]
分野 俳句 分類 作品

[略歴]
  一九〇〇年二月二一日、兵庫生れ。県立工業高校卒。現代俳句協会名誉会員。自選全句集『而今』、評論・随筆多数。

[受賞のことば]
  老朽は叡智ということ
   第六回詩歌文学館賞受賞のことば

  思わずもこの受賞に恵まれまして真実鳴謝しています。人生九十を満喫の佳境、このさい天恵の如く思い出しますのは、イェイツの名詩「長い沈黙のあと」安藤一郎訳の八行詩七行目の十一字一句、《肉体の老朽は  叡智である、》です。この深大窮達の叡智を、身びいきに老朽しつつある私の《俳》境に受用させて貰えば、句的妄想の跳梁に当てはまる快適さです。妄想はそく《生死》往来の自他《茶化し=諧謔》の品位格調でありたい、例えば《たわむれに老い行く如し冬の海》一句に漂う《自己韜晦》の儀式ともいえる関西的どろんの質量的容貌にすぎません。奇しくもこのたわれの表題をかぶる輓近の拙句集『泥ん』に、白羽の矢を立てて下さったこのたびの受賞は、生涯反芻不忘、最高の記念となりましょう。お蔭で野老は《歳月の弟子*私自身の弟子》のまま、死ぬまで《成長》して行くことが出来ます。九拝不尽。

 
[作品抄出]
 
春風として空溝を跳ねまんねん

われ寝釈迦かも脇腹も蓬かな

花茨双頰照るは無の如し

ナマソラクウナマナル春ノ山

鼻梁踏む音にかも似つ春の霜

肛門を今しまいけり夏の空

西方といえども藪蚊隠れ哉

空蟬の僧形を蹴る山河かな

月面はえん皮袋ひたいの一重かな

而うして泥上でいじように在る泥鰌哉

冬麗の腹の如きにもたれけり

冬の日に照り倒さるる事やある

梅の肱山の肱らし春の川

薄氷やキレイゴトなどやらんわい

独活白うして而今而今ニコニコす最晩年

銅線の如くに狂え春の道

大晩春泥ん泥泥どろ泥ん

自解自壊大晩年のさえづりや

春風や巨大放屁の物化はや

緩褌ゆるふん西行さいぎようは佳し辣韮漬

本物の土をおろがむ若葉かな

池暑し我が幽体の足音達

晶晶と近づく死在り夏高し

烈日やわた衰うるあらゆる場

話さむと九十年を真菰かな

今人こんじん我また古人らし夏嵐

我が欲しき墓列び居つ夏の景

佇チテ我ワレヲ泥トス秋ノ暮

冗談に鼻孔や在らん秋の風

秋風や老の脇から清水散り

淵に先ず我が寒頭のがん写す

老松を秋風発す嬰として

嬋娟たり雪景胎の如し如し

鶯が啼けば聞くわと仰言おしやのう

雪景や老松途中如如途中

(掲載作選出=金子兜太)